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小野賢二氏「南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち」に掲載された資料群の信憑性

http://www.geocities.jp/yu77799/nankin/saigen7.html
小野賢二の資料より

一方、虐殺現場となる長江岸には半円形に鉄条網が張られ、その外側に重機関銃が設置された。捕虜はこの鉄条網の中に入れられる。証言によると、長江岸から捕虜を並べるのに「整理兵」と呼ばれた兵士たちが、捕虜とともに鉄条網の中に入り誘導した。重軽機関銃の銃撃は半円形の鉄条網の両端にたいまつのような装置を設置し、この装置に点火と同時に銃撃が開始され、闇の中で、その両端の火をそれぞれの機関銃の「射撃範囲」とした。
 だが、この時なんらかの事情で何名かの「整理兵」が鉄条網の外に出られなかったという。七名の死者の何名かは捕虜とともに銃殺された「整理兵」だった。
』(『南京大虐殺否定論13のウソ』P151-P152)

http://www.geocities.jp/kk_nanking/butaibetu/yamada/kurihara03.htm
栗原利一の息子

まわりに鉄条網はありません(父によると、そんなことしてあったら捕虜に感づかれてしまうとのことでした)。


栗原利一の息子の証言を信用するなら、小野賢二の資料は眉唾になりますよね。

板倉由明著『本当はこうだった南京事件』p135より

小野賢二氏は、地元在住という地の利や所属団体の協力を生かして、根気よく地を這うように個々の元兵士や遺族に当たり、末端から貴重な資料の収集に成功した。私事で恐縮だが、筆者は朝日新聞でこのことを知り、すぐ小野氏に電話したところ、「あなたとは口も聞きたくない」と剣もほろろに断られた苦い記憶がある。
小野賢二資料集掲載の兵士の日記にも、しばしば作戦についての言及がある。しかし、その多くは確実に把握した正確な情報では無く、小耳に挟んだ知識の断片や伝聞・噂のたぐいである。虚勢や強がりで「捕虜は皆殺しだ」と大言壮語したのが記録されて、戦後日本軍の非行の証拠とされている例もある。かの「百人切り競争」なども虚から実を生じた最悪の例だが、この資料集だけから軍の意向を判断するのは本質的に無理である。

板倉由明著『本当はこうだった南京事件』p142より

なお、小野賢二氏は『南京大虐殺の研究』で、目黒福治伍長日記18日を基に、18日夜も一万三千の虐殺があった可能性があり、そうなれば虐殺数総計は三万三千となる、としている。小野氏は第十六師団歩三十三、歩三十八の犯行(収容場所、四,五所村)も疑っているが、これは目黒日記の誤記と考えられる。両総隊にはこの捕虜処分の記録も証言もなく、第十六師団参謀長・中沢三夫大佐メモには、集団捕虜の数を山田支隊一万三千、十六師団七千とあり(中沢三夫関係資料)、この七千は仙鶴門鎮で歩38が管理した捕虜であるから、第十六師団にはこれ以上の捕虜はいなかったことが明らかである。


小野賢二発掘資料について
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14106610409
http://s.ameblo.jp/seigikan/entry-11181356308.html
http://1st.geocities.jp/nmwgip/nanking/Bakufu.html#ch2
日記の記録者は、二名を除いてみんな仮名

南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち―第十三師団山田支隊兵士の陣中日記
小野賢二,本多勝一,藤原彰(編集)

小野賢二(化学労働者)「ある市民グループ」の南京事件の研究ツアーに参加して調査を始める
>藤原彰(1922年-2003年、一橋大学名誉教授)「朝鮮戦争は韓国が仕掛けた」「毒ガス写真事件」
>本多勝一(1932年-、ジャーナリスト)言わずと知れた「中国共産党広報担当」カツラとグラサンで素顔を隠す

虐殺否定派の論客リスト~10万人以上説は”アカ”だらけ
http://nomorepropaganda.blog39.fc2.com/blog-entry-853.html

03:30 「調査のきっかけはある市民グループが主催した南京事件の研究ツアー」 どういう市民グループですかね?
05:50 「大虐殺やってるわけだから、来るな、という拒否」 最初から「虐殺した」という前提で調査を始めている。
09:10 「徴発」を「略奪」として「違法行為」と断じていますが、wikipediaにも「特に、軍需物資などを人民などから集める際に見られる行為で、行政的な執行権が伴う場合もある。供出や略奪と異なり、徴発においては対価は支払われる。対価は軍票などによることが多い」とあり、略奪とは違います。
あからさまな洗脳番組ですね。

幕府山事件は合法です。

幕府山事件と「審問なき処罰の禁止」について~戦時国際法上合法説
http://nomorepropaganda.blog39.fc2.com/blog-entry-871.html


「核心」は栗原利秀
http://blog.goo.ne.jp/kobajun-snow/e/30650054f639e2067dcff618bb153179
http://himadesu.seesaa.net/article/18422207.html


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科学労働者

y1892aさん

小野賢二発掘資料について

http://s.ameblo.jp/seigikan/entry-11181356308.html

日記の記録者は、二名を除いてみんな仮名ですか?
これは確かですか?

これはバカの工作だな。小野さんは真面目に取り組んでるのに批判を楽々してるこの人キチガイかな?
最低な日本人だね。
仮名なのはあたりまえ。実際実名だしたらどうなるかくらいわかるやろ?アホなんかこいつ。
こんな日本人がいるから中国は怒るんだよね。

潰す派の中核は制服組主流派と右翼の合体勢力

南京は潰すか、残すかだから小野さんを批判しても意味がないよ。
私はコテコテの残す派だからね。
「さすがの揚子江も真っ赤になった、あっはっは。」も残すことにしているから。

とりあえず「森松俊夫氏の二度目の犯罪 思考錯誤」でグーグル検索してみてください。
潰す派の中核は制服組主流派と右翼の合体勢力だから。

小野賢二なる人間は犯罪者です。信頼できる顔をしていません。

そもそも65連体というのだから1000人くらいの隊です。それだけで日記が書ける身分の人間は20人いないのです。しかも刺殺だの銃殺などの日記を持っているはずがあるわけがないのです。

軍事裁判が世界中で行われているのですよ。知らないわけがないのです。
読まれたら死刑です。しかも日本は7年間の占領地です。

ここまで証拠が出ても必死に虐殺を否定するその根性、さすがですね

<20人いない>の根拠を出せ!うそもいい加減にせよ!やはりウヨク思考はおかしい!

『そもそも65連体というのだから1000人くらいの隊です。
それだけで日記が書ける身分の人間は<20人いない>のです。』

おいおい、兵士だから、若い、20代、30代である。

第65連隊は、会津若松の白虎隊の部隊である。学問を重視する風土。
農民が多いとしても、みんな<義務教育を受け>読み書きそろばんはできる。

日本兵士の、識字率は100%です。
そして、だから、日本人には、日記をつける人間も、多くいた。

他方、米兵は、黒人も多く、自分の名前でさえも書けない者が多かった。

戦後、上野公園の<乞食でさえ>
新聞を拾って、
<難しい漢字での日本新聞>を読んでいるのを見て、びっくりしている。

<20人いない>の具体的根拠を出しなさい!
出来ないでしょう!

自分自身の捕虜殺害は事実であり、日記に書いた!これは、伝聞ではなく、自分の行為である。そして、心境も書く「戦友の仇打ち」と!

終戦は1945年。
第65連隊の捕虜の殺害は、1937年であり、そ8年も前。

末端の兵士は、<上官の命令で殺害している>から、戦犯にならない。

個人の「陣中日記」であり、日記の存在自体も知れれていない。
他人に見られることもない。
兵士の遺族が、<形見として、大切に保管して来た>のである。
それを、一人一人、何度も、7年間もかけて訪問して、こつこつ集めてきたのである。

<B級戦犯>は、<両角業作・連隊長>である。
だから、戦後ウソの証言をして、地元の新聞に掲載し、
部隊の兵士も<それに口裏を合わせた>。

中国兵捕虜の殺害は、自分自身の行為・体験であり、その本人が書き残した。
噂や、伝聞ではない!



だから、以下とは、全然、関係がない!

『小野賢二資料集掲載の<兵士の日記>にも、しばしば作戦についての言及がある。しかし、その多くは確実に把握した正確な情報では無く、
小耳に挟んだ知識の断片や伝聞・噂のたぐいである。』

捕虜2万人の殺害・幕府山事件は、3つの集団に分けて、16日、17日で殺害!兵士の『陣中日記』と証言は、この3つの内一つを証言していて、3つでは多少差異がある。

下級兵士の『陣中日記』は他人に読ませるものではないから、
嘘は書かない。自分にはウソをつかない。

だから、
<自分が実際に行った>捕虜の殺害行為そのものは、嘘の筈がない。

この『陣中日記』は出版され、日記の現物の写真も掲載されている。

● ● ●

捕虜2万人の殺害・幕府山事件は、<捕虜を3つの集団>に分けて、16日、17日で殺害!
当時、捕虜は、約2万人にも増加していたので、一ヶ所に収容できず、分散して監視していた。
だから、16日に、一部の捕虜が殺害され、いなくなっても、残りの捕虜は気が付かなかった。

更に、殺害場所も大きくは2ヶ所であり、
「魚雷営」付近と、更に下流(南京城の北側)の「大湾子」付近である。
また、前者では、16日と17日の2回殺害しているので、その場所は大分ずらしている筈。

兵士の『陣中日記』と戦後の証言は、この<3つの内、一つの体験>を証言していて、
3集団の殺害では、多少差異があって当然である。

まず、重機関銃での殺害は、16日と17日に行われた。、『従軍日記』が証拠。
更に、3集団とも、使われた可能性もある。

栗原利一氏の証言は、17日の最大の1万3千500人の殺害である。
たとえ、ここで、鉄条網がなかったとして、
前日の、別の場所での、重機関銃での殺害で、鉄条網がないと否定はできない。

出所不明で証拠にならない

小野という人間が一方的に元兵士の日記だと主張しているだけで、仮名であるために何処の誰ともわからない、現物を他の研究者が検証していないので本物かどうかもわからない。

内容云々以前の問題で、こんな「ウラ」がとれないモノは証拠にならないですよね。

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ソクラテス太郎

Author:ソクラテス太郎
アテナイ人諸君、こういう噂を撒きちらした、こういう連中がつまりわたしを訴えている手ごわい連中なのです。
そして、その連中というのは、嫉妬にかられて、中傷のために、諸君をあざむくような話をしていたわけなのであって、かれらのうちには、自分でもすっかりそう信じこんで、それを他人に説いているような者もあるわけなのですが、いずれもみな厄介至極な連中なのです。

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