ダーディン、スミス、スティールの記事、証言
上海から南京まで追撃される中国軍に従軍していたニューヨーク・タイムズのティルマン・ダーディン通信員
『(上海から南京へ向かう途中に日本軍が捕虜や民間人を殺害していたことは)ありませんでした。』
『私は当時、虐殺に類することは何も目撃しなかったし、聞いたこともありません」「日本軍は上海周辺など他の戦闘ではその種の虐殺などまるでしていなかった』
『上海付近では日本軍の戦いを何度もみたけれども、民間人をやたらに殺すということはなかった。』
(1989年10月号の『文藝春秋』)
『中国軍による焼き払いの狂宴(12月7日以降)…南京へ向けて15マイルにわたる農村地区では、ほとんどすべての建物に火がつけられた。村ぐるみ焼き払われたのである。中山陵園内の兵舎・邸宅や、近代化学戦学校、農業研究実験室、警察学校、その他多数の施設が灰塵に帰した。…この中国軍による焼き払いによる物質的損害を計算すれば、優に2000万ドルから3000万ドルにのぼった。これは、南京攻略に先立って何ヶ月間も行われた日本軍の空襲による損害よりも大きい』(ニューヨークタイムズ、ティルマン・ダーディン)。
『12日午後、私はイタリア大使館の屋上から日中両軍の激戦を眺めていた。午後4時半、誰かが「日本軍が入城したぞー」と叫ぶや中国兵は中山路を通って続々と下関へ向かい退却を始めた。規律は保たれていたが、武器、弾薬を捨て、なかには軍服を脱ぎ捨てて安全区に逃げ込む者もいた。夜10時頃、交通部の建物に火がつき、中の弾薬が爆発し、火災が広がり、車両と敗兵と難民は進路を断たれて混み合い、大混乱に陥った。下関の入り口では死体が累々と重なり、城門が閉まっていたので後ろから来た兵士は縄ばしごや帯で死体の山を越えてよじ登った。小舟や筏で揚子江を渡ろうとして乗りすぎ沈没、溺死する者もいた。翌朝まだ取り残されていた兵士たちは、武器を捨てて難民区へ逃げ込んだ』
(ロイター通信スミス記者 12月18日上海発)
『土曜日(11日)には、中国軍による市内の商店に対する略奪が広がっていた。住宅には手を触れていなかったし、建物に入るために必要な限りの破壊にとどまっていた。掠奪の目的が食糧と補給物資の獲得にあることは明らかであった。南京の商店は安全区以外では経営者が逃げてしまっていたが、食料は相当に貯蔵してあった。』
『(12日)夕方には退却する中国軍は暴徒と化していた。中国軍は完全に壊滅した。中国軍部隊は指揮官も無く、何が起こったか知らなかったが、ただわかっているのは、戦いが終わり、何とか生き延びねばならぬと言うことだった』
(ニューヨークタイムズ、ティルマン・ダーディン)
銃砲の散乱する街路
小銃は壊され、山と積まれて燃やされた。街路には遺棄された軍服や武器、弾薬、装備等が散乱した。平時であれば、一般住民――まだ約一〇万人が市内にいた――はかかる逸品を得んと奪い合うのだが、いまや軍服や銃を持っているところが見つかれば殺されることを誰もが知っていた。
だが数人の老婆がうろつき、軍服を切って中の綿を抜き取り、喜色満々とボロ家に運んでいった。そのとき、軍が米でいっぱいの倉庫を放棄したという話が広まり、安全区中の小屋という小屋、壕という壕から人々が飛び出してきて、怒涛のように倉庫に押し寄せ、中身を数時間で奪い尽くした。
日本側の捜索網がせばめられるにつれて、恐怖のあまりほとんど発狂状態になる兵士もいた。突然、ある兵士が自転車をつかむと、わずか数百ヤードの距離にいた日本軍の方向に向かって狂ったように突進した。道行く人が、「危ないぞ」と警告すると、彼は急に向きを変え、反対方向に突っ走った。突如、彼は自転車から飛び降りるなりある市民に体当たりし、最後に見たときには、自分の軍服を投げ捨てながらその男の服を引き剥がそうとするところであった。
なんらなす手はなし
武装解除した兵士たちについては、外国人にできることはほとんどない。もっとも、おそらく彼らの進入が、中国軍の突然の退却後南京に取り残された何千という負傷者の生命を救ったのであるが。
日本軍は兵士と便衣兵を捕らえるため市内をくまなく捜索した。何百人もが難民キャンプから引き出され、処刑された。男たちは二、三百人ずつのグループで適当な処刑場に集められ、小銃と機関銃で殺された。あるときは、捕らえられた数百人の集団を片付けるため戦車が繰り出された。
私は集団処刑を一つ目撃した。数百人の男たちの一隊が大きな日本国旗を抱えて、街路を行進してきた。これに二、三人の日本兵が付き添い、空き地へ引き連れて行く。そこで彼らは小人数ずつ、残虐に銃殺された。一人の日本兵が小銃を手に、膨れ上がる死体の山を監視しており、少しでも動きを見せる人体があれば、弾丸を浴びせた。
日本軍にとってはこれが戦争なのかもしれないが、私には単なる殺戮のように見える。
二月四日<シカゴ・デイリー・二ュ-ズ>スティール
http://1st.geocities.jp/nmwgip/nanking/Stl.html
トップへ ”南京大虐殺”のまとめ 責任者は蒋介石・唐生智 日本は無罪
『(上海から南京へ向かう途中に日本軍が捕虜や民間人を殺害していたことは)ありませんでした。』
『私は当時、虐殺に類することは何も目撃しなかったし、聞いたこともありません」「日本軍は上海周辺など他の戦闘ではその種の虐殺などまるでしていなかった』
『上海付近では日本軍の戦いを何度もみたけれども、民間人をやたらに殺すということはなかった。』
(1989年10月号の『文藝春秋』)
『中国軍による焼き払いの狂宴(12月7日以降)…南京へ向けて15マイルにわたる農村地区では、ほとんどすべての建物に火がつけられた。村ぐるみ焼き払われたのである。中山陵園内の兵舎・邸宅や、近代化学戦学校、農業研究実験室、警察学校、その他多数の施設が灰塵に帰した。…この中国軍による焼き払いによる物質的損害を計算すれば、優に2000万ドルから3000万ドルにのぼった。これは、南京攻略に先立って何ヶ月間も行われた日本軍の空襲による損害よりも大きい』(ニューヨークタイムズ、ティルマン・ダーディン)。
『12日午後、私はイタリア大使館の屋上から日中両軍の激戦を眺めていた。午後4時半、誰かが「日本軍が入城したぞー」と叫ぶや中国兵は中山路を通って続々と下関へ向かい退却を始めた。規律は保たれていたが、武器、弾薬を捨て、なかには軍服を脱ぎ捨てて安全区に逃げ込む者もいた。夜10時頃、交通部の建物に火がつき、中の弾薬が爆発し、火災が広がり、車両と敗兵と難民は進路を断たれて混み合い、大混乱に陥った。下関の入り口では死体が累々と重なり、城門が閉まっていたので後ろから来た兵士は縄ばしごや帯で死体の山を越えてよじ登った。小舟や筏で揚子江を渡ろうとして乗りすぎ沈没、溺死する者もいた。翌朝まだ取り残されていた兵士たちは、武器を捨てて難民区へ逃げ込んだ』
(ロイター通信スミス記者 12月18日上海発)
『土曜日(11日)には、中国軍による市内の商店に対する略奪が広がっていた。住宅には手を触れていなかったし、建物に入るために必要な限りの破壊にとどまっていた。掠奪の目的が食糧と補給物資の獲得にあることは明らかであった。南京の商店は安全区以外では経営者が逃げてしまっていたが、食料は相当に貯蔵してあった。』
『(12日)夕方には退却する中国軍は暴徒と化していた。中国軍は完全に壊滅した。中国軍部隊は指揮官も無く、何が起こったか知らなかったが、ただわかっているのは、戦いが終わり、何とか生き延びねばならぬと言うことだった』
(ニューヨークタイムズ、ティルマン・ダーディン)
銃砲の散乱する街路
小銃は壊され、山と積まれて燃やされた。街路には遺棄された軍服や武器、弾薬、装備等が散乱した。平時であれば、一般住民――まだ約一〇万人が市内にいた――はかかる逸品を得んと奪い合うのだが、いまや軍服や銃を持っているところが見つかれば殺されることを誰もが知っていた。
だが数人の老婆がうろつき、軍服を切って中の綿を抜き取り、喜色満々とボロ家に運んでいった。そのとき、軍が米でいっぱいの倉庫を放棄したという話が広まり、安全区中の小屋という小屋、壕という壕から人々が飛び出してきて、怒涛のように倉庫に押し寄せ、中身を数時間で奪い尽くした。
日本側の捜索網がせばめられるにつれて、恐怖のあまりほとんど発狂状態になる兵士もいた。突然、ある兵士が自転車をつかむと、わずか数百ヤードの距離にいた日本軍の方向に向かって狂ったように突進した。道行く人が、「危ないぞ」と警告すると、彼は急に向きを変え、反対方向に突っ走った。突如、彼は自転車から飛び降りるなりある市民に体当たりし、最後に見たときには、自分の軍服を投げ捨てながらその男の服を引き剥がそうとするところであった。
なんらなす手はなし
武装解除した兵士たちについては、外国人にできることはほとんどない。もっとも、おそらく彼らの進入が、中国軍の突然の退却後南京に取り残された何千という負傷者の生命を救ったのであるが。
日本軍は兵士と便衣兵を捕らえるため市内をくまなく捜索した。何百人もが難民キャンプから引き出され、処刑された。男たちは二、三百人ずつのグループで適当な処刑場に集められ、小銃と機関銃で殺された。あるときは、捕らえられた数百人の集団を片付けるため戦車が繰り出された。
私は集団処刑を一つ目撃した。数百人の男たちの一隊が大きな日本国旗を抱えて、街路を行進してきた。これに二、三人の日本兵が付き添い、空き地へ引き連れて行く。そこで彼らは小人数ずつ、残虐に銃殺された。一人の日本兵が小銃を手に、膨れ上がる死体の山を監視しており、少しでも動きを見せる人体があれば、弾丸を浴びせた。
日本軍にとってはこれが戦争なのかもしれないが、私には単なる殺戮のように見える。
二月四日<シカゴ・デイリー・二ュ-ズ>スティール
http://1st.geocities.jp/nmwgip/nanking/Stl.html
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