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アメリカ帝国の闇 日本にも迫る「民営化」という危機

冷戦下では資本主義の同盟国として日本に寛容だったアメリカは、1991年冷戦終結のあと、日本からの収奪に舵を切った。金融ビックバンをはじめとする構造改革や民営化の圧力がそれである。
民営化というのはまさにアメリカ帝国のための民営化なのである。


●イランのケース

1953年 石油国有化政策を推進したモハンマド・モサッデク首相失脚
 国際石油資本(メジャー)によるイラン石油の国際市場からの締め出しのためにイラン政府は財政難

1963年 パフラヴィー朝パーレビ国王農地改革、森林国有化、国営企業の民営化、婦人参政権、識字率の向上などを盛り込んだ「白色革命」を宣言

1979年2月 イラン革命
 アメリカ合衆国政府の傀儡政権だったパフラヴィー朝を打倒したので、アメリカ合衆国から敵視された。

1980年9月22日 イラン・イラク戦争
 イランのイスラム革命に介入しようと、米国や欧州などはサダム・フセインのイラクを積極的に支援した。

1986年11月 アメリカ合衆国のイランへの武器売却代金がニカラグアのコントラ・グループに流れていた事が発覚(イラン・コントラ事件)。この時アメリカ合衆国の手先となって支援資金の洗浄をしていたのはオサマ・ビンラディンの兄サレム・ビンラディンであった。


チリのケース

1970年10月 チリ陸軍司令官のレネ・シュナイダー暗殺(「軍は政治的に中立であるべき」という信念の持ち主)
 人民連合の統一候補として出馬したサルバドール・アジェンデが大統領就任
 西側諸国は経済封鎖、外資系の鉱山会社が国有化
1973年 総選挙でアジェンデの人民連合は大統領選より更に得票率を伸ばした。
 アメリカ政府に支援された反政府勢力による暗殺事件などが頻発

1973年9月11日 チリ・クーデター 世界で初めて自由選挙によって合法的に選出された社会主義政権を、軍部が武力で覆した事件として有名。
 クーデター直後に戒厳令が敷かれ、ビクトル・ハラを初めとする人民連合系の市民が多数サンティアゴ・スタジアムに集められ、容赦なく虐殺された。クーデター後一日で確認された遺体は2,700体に上った

1974年6月27日 ピノチェトが大統領に就任
経済政策では、ミルトン・フリードマンが主張する新自由主義を実行。農民に分配された農地は大土地所有者の手に戻ったが、国営銅企業の民営化はなされなかった。国民に対する弾圧や事実上のテロ行為は国際的に厳しい非難を浴び、国連総会でも1974年以来4年連続で対チリ非難決議が採択された。


キューバのケース

1898年2月15日にハバナ湾でアメリカ海軍の戦艦メインが爆発、沈没し266名の乗員を失う事故
しかしスペインは戦争に消極的であった
キューバでは既に数十年に渡る独立のためのゲリラ戦争が展開されていた
1898年4月 米西戦争
アメリカはフィリピン、グアムおよびプエルトリコを含むスペイン植民地のほとんどすべてを獲得しキューバを保護国として事実上の支配下に置いた

1959年の元日 カストロとゲバラのキューバ革命
ユナイテッド・フルーツなどのアメリカ資本の支配下にあった農業の改革を目的に農地改革法を制定した他、アメリカ合衆国及び西側を中心とした諸外国の所有するキューバ国内における財産を1960年8月6日に国有化するなど、結果的に社会主義的な政策を矢継ぎ早に導入することとなった。
お薦めの動画 - 9.11の英雄が母国アメリカに見捨てられ敵国キューバに救われる


●ニカラグアのケース

1936年からソモサ家の独裁
1979年7月19日 ニカラグア革命
アメリカ合衆国は経済援助を停止し、CIAなどさまざまな組織を通じて、旧ソモサ軍の兵士や、エデン・パストラをはじめとするサンディニスタの反主流派、カリブ海のモスキート海岸の先住民、ミスキート族などを反政府勢力コントラに組織し、ニカラグアに第二次ニカラグア内戦を強いた。

1986年11月 アメリカ合衆国のイランへの武器売却代金がニカラグアのコントラ・グループに流れていた事が発覚(イラン・コントラ事件)。この時アメリカ合衆国の手先となって支援資金の洗浄をしていたのはオサマ・ビンラディンの兄サレム・ビンラディンであった。
 

ボリビアのケース

1993年 ゴンサロ・サンチェス・デ・ロサダ政権成立。新自由主義政策を採用した。
2000年 コチャバンバ水紛争
水供給公社の契約は競争入札により行なわれたが、一人の応札者しか現れず、数百万ドルの価値が見込まれる上水道システムがわずか2万ドル以下で売却。米ベクテル社の完全子会社が上水道設備を手にした数週間後に、ミシクニダムの建設の資金調達のためとして水道料金の大幅な値上げを行なった。
2003年 ボリビアガス紛争 ボリビアの天然ガス資源の開発会社を完全国有化するか民営化するか

2006年 ボリビアでは初の先住民出身となる大統領、エボ・モラレスが「社会主義運動」より就任した。
ブラジルのペトロブラスなどの外資を国有化し、公約通り天然ガスを国有化した。大農場主から接収した土地の所有権を先住民に引き渡した。


グアテマラのケース 

1944年から1954年まではグアテマラの春と呼ばれ、自由な空気の下に、各種の民主的な社会改革が進められた。
ハコボ・アルベンスはポプリスモ的政治家として土地改革などの政策を行ったが、これは次第に合衆国がグアテマラの共産主義化とのネガティブキャンペーンを張らせることになり、土地改革がユナイテッド・フルーツの社有地に適用されることになると、合衆国の怒りは頂点に達した。アメリカ政府の雇用した反アルベンス派傭兵軍がエル・サルバドルから侵攻すると、軍の上層部はアルベンスを見捨てアルベンスは亡命。グアテマラの春は終わりを告げた(PBSUCCESS作戦)。

1960年から1996年 CIAはグアテマラ軍上層部の支援を得て、1954年、PBSUCCESS作戦と呼ばれる政府転覆を実行し親米独裁政権が生まれたが、これはグアテマラに長い動乱の時代を招いた。1960年からグアテマラ内戦が始まり、36年間にわたり武装反乱軍(FAR)などのゲリラとグアテマラ政府軍の戦闘が続いた。1980年代には軍部がほぼ実権を握り、農村部への焦土作戦をとるなど反体制派に対する徹底した弾圧を行った。この軍事行動の結果、数万人の行方不明者を含め最大20万人が死亡もしくは行方不明となった。内戦状態は1996年に平和条約の調印によって終わった。


ベネズエラのケース

1980年代を通して豊富な原油や天然資源により莫大な貿易利益がありながら貧富の格差、累積債務が増大し、プント・フィホ体制の腐敗が明らかになっていった。1989年には低所得者層によりカラカス暴動(カラカソ)が発生
1992年 空挺部隊のウーゴ・チャベス中佐が政治改革を求めてクーデター未遂事件を起こした
1999年 クーデターの首謀者、ウゴ・チャベスが大統領に就任
内政では保健と教育を最重要視する政策をとっている。低所得層が住む地区での無料診療所の開設、学校の建設、非識字者や学校中退者のための補習プログラムなどがその例である。貧困層重視の政策は、強引な政治手法とあいまって、富裕層、中産階級、以前の有力政党と結ぶ労働組合から強い反発を受けた
チャベスの政策はワシントン・コンセンサスを否定し、反市場原理主義、反新自由主義を鮮明に掲げ、富の偏在・格差の縮小など国民の大多数に及んだ貧困層の底上げ政策が中心
大統領就任宣誓式の演説で、国有化推進の一環として国家による天然ガスプロジェクトの支配権獲得を推奨、外資企業によるガスプロジェクト保有を認める現行法の改正を提案し憲法は原油分野では国の活動を保護しているが、ガス分野ではしていないと指摘しており、「炭化水素や液化、固形、ガスにも言及すべきだ」と発言した。
隣国である親米国コロンビアとはかねてから関係が悪く、2009年7月には外交関係を凍結。その後、国交回復で合意したが、依然として不安定な状況が続いている
 2002年4月のベネズエラの政変

インドネシアのケース

1965年9月30日、大統領親衛隊長ウントゥン中佐が率いる左派系軍人が、陸軍参謀長ら6将軍を殺害するというクーデター(9月30日事件)が発生した。事件の詳細な経緯はいまなお明らかにはなっていないが(スハルトは事前にこのクーデター計画を察知していたという説やスハルトによる陰謀説もある)、スハルトは、スカルノから事態の収拾に当たるための権限を与えられ、速やかにこれを鎮圧した。同年10月16日、陸軍大臣兼陸軍参謀総長に就任したスハルトは、事件にかかわった共産党の指導者・一般党員・共産党との関係を疑われた一般住民を大虐殺し、党組織を物理的に解体した。20世紀最大の虐殺の一つとも言われ、50万人前後かとも言われるその総数はいまなお不明。
同年3月11日、スカルノは秩序回復のための一切の権限をスハルトに与える「3月11日命令書」にサインし(させられ)、その実権をスハルトに譲った。スハルトは、1967年3月に大統領代行に、そして1968年3月には第2代大統領に就任した。

スハルトは、それまでスカルノが排除していた世界銀行とIMFをインドネシアに招き入れ、多国籍企業による国内資源と低賃金労働へのアクセスに協力しました。

1997年アジア通貨危機が発生し、インドネシアも通貨ルピアの大幅切り下げやIMF特別融資などの影響は、住民の生活に大打撃を与えた。
事態を打開できないスハルト政権に対する不満が急速に高まり、約30年にわたって続いてきた長期政権下での潜在的不満も各地で噴出するようになった。そうした不満は、前大統領スカルノの長女メガワティが率いる闘争民主党の支持へと形を整えていった。
そうした国民の不満をよそに、1998年3月11日、スハルトは大統領に7選されたが、ここにいたって国民の不満は頂点に達した。首都ジャカルタでは大学生の反政府デモが一般市民をも巻き込んで街頭を埋め尽くし、その一部は暴徒化した。デモは地方都市にまで波及し、政府内部にもスハルトへの辞任要求の声が高まった。これらの圧力に屈する形で、5月21日、スハルトは大統領辞任を宣言、副大統領(当時)のハビビに職を譲った。

●イラクのケース

1980年のイラン・イラク戦争ではアメリカはフセインのイラクと協力してイラン革命イランと戦っていた。この戦争を通じてイラクがクウェートに対して抱え込んだ負債を帳消しにすることが、湾岸戦争へ発展する、イラクによるクウェート侵攻の目的

2003年3月20日 イラク戦争 アメリカ合衆国が主体となり、イギリス、オーストラリアに、工兵部隊を派遣したポーランドなどが加わる有志連合が、イラク武装解除問題の進展義務違反を理由として『イラクの自由作戦』の名の下にイラクに侵攻したことで始まった戦争。

イラクは石油輸出の決済をドル仕立てからユーロ決済への移行を決定していた。これが実行されるとアメリカドルの世界基軸通貨としての地位が揺らぐため、それを阻止するための防衛戦争として侵略を決行した。また、冷戦以後、目立った戦争を経験していなかった軍需産業が衰退していたため戦争を誘発した。

大量破壊兵器がある、ビンラディンをかくまっている、とさんざん嘘を垂れ流して、政権転覆してみたら「証拠は無かった」で終わり。
イラクのクウェート侵攻(湾岸戦争)もアメリカの口車に乗せられてのこと。ナイラ証言も嘘だった。
サダムフセインは問答無用で死刑にされた。死人に口なし、か。


●リビアのケース

カダフィ政権時代は、6歳から15歳までの初等教育と前期中等教育が無償の義務教育期間となり、その後3年間の後期中等教育を経て高等教育への道が開けていた。
リビアは先に反政府デモが勃発したチュニジアやエジプトとは違い、豊富な石油や天然ガス資源を背景とした富がある程度は国民に配分されていたとされる。

2011年 リビア内戦でNATO軍が侵攻。

教育も医療も無料で受けられたリビアは、教育も医療も高額なアメリカより平等で大衆に優しい国であった。
こんな国で革命が起こるなら、アメリカの方が先に革命が起こらなければいけません。
フセインと同じく、公の場で反論させることも無く殺害された。



さて問題です。今、シリアで起こっているのはどっち?
1.アサド政権による自国民の虐殺
2.アメリカ・イスラエルに支援されたテロリストによる偽旗作戦








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Author:ソクラテス太郎
アテナイ人諸君、こういう噂を撒きちらした、こういう連中がつまりわたしを訴えている手ごわい連中なのです。
そして、その連中というのは、嫉妬にかられて、中傷のために、諸君をあざむくような話をしていたわけなのであって、かれらのうちには、自分でもすっかりそう信じこんで、それを他人に説いているような者もあるわけなのですが、いずれもみな厄介至極な連中なのです。

http://twilog.org/nomorepropagand

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