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南京大虐殺は実は「漢奸狩り」

日中戦争における「漢奸」
日中戦争中及び戦争終結後には日本への協力の有無に関わらず、日本について「よく知っている」だけの中国人でも「漢奸」として直ちに処刑されたり、裁判にかけられた。また、日本に協力する者であれば漢民族でなくても「漢奸」と呼称した。この基準に照らせば、最も日本を研究し日本を一番知っていた蒋介石や対日戦略を立てていた何応欽、楊杰、熊斌など、中国側の中枢人物も「漢奸」に該当するという指摘もある。


日中戦争中の「漢奸狩り」
国民政府側の指導者である蒋介石は自軍が日本軍の前に敗走を重ねる原因を「日本軍に通じる漢奸」の存在によるものとして陳立夫を責任者として取締りの強化を指示し、「ソビエト連邦の GPU による殺戮政治の如き」「漢奸狩り」を開始した。

国民政府は徴発に反抗する者、軍への労働奉仕に徴集されることを恐れて逃走する者、日本に長期間移住した者などは、スパイ、漢奸と見なし白昼の公開処刑の場において銃殺したが、その被害者は日中の全面戦争となってから二週間で数千名に達し、国民政府が対民衆に用いたテロの効果を意図した新聞紙上における漢奸の処刑記事はかえって中国民衆に極度の不安をもたらしていたが、この大量虐殺によるテロ政策を連日続けていたため暴動の勃発は抑えられていた。前線に出た中国軍には掠奪など一切の暴虐が正式に許されていたが、中国軍兵士の掠奪に異議を唱えた嘉定県住民は漢奸として火焙りにより処刑されている。1937年9月の広東空襲に対しては誰かが赤と緑の明かりを点滅させて空爆の為の指示を出したとして、そのスパイを執拗に追求するという理解に苦しむことも行われ、一週間で百人以上のスパイが処刑された。
※赤字部分:日本で研修を受けた医師四人の処刑が伝えられている(The New York Times, August 27, 1937)
※青字部分:『読売新聞』1937年8月29日付号外
当時の中国兵の実態は、国際法なんて概念を持たない匪賊


上海南市にある老西門の広場では第二次上海事変勃発後、毎日数十人が漢奸として処刑され、その総数は 4,000 名に達し、中には政府の官吏も 300 名以上含まれていた。処刑された者の首は格子のついた箱に入れられ電柱にぶらさげて晒しものにされた。上海南陶では 1 人の目撃者によって確認されただけでも 100 名以上が斬首刑によって処刑された。罪状は井戸、茶壷や食糧に毒を混入するように買収されたということや毒を所持していたというものである。その首は警察官によって裏切り者に対する警告のための晒しものとされた。戒厳令下であるため裁判は必要とされず、宣告を受けたものは直ちに公開処刑された。

南京における「漢奸狩り」
日中戦争初期に日本で発行された『画報躍進之日本』の中で、陥落前の南京における「漢奸狩り」が報告されているほか、『東京朝日新聞』、『読売新聞』、『東京日日新聞』、『ニューヨーク・タイムズ』も「漢奸狩り」について報道をおこなっている。

戦争が始まると漢奸の名目で銃殺される者は南京では連日 80 人にも及び、その後は数が減ったものの1937年11月までに約 2,000 名に達し、多くは日本留学生であった(当時南京にいた外国人からも日本留学生だった歯科医が漢奸の疑いで殺された具体例が報告されている)。『画報躍進之日本』では「これは何らかの意図をもって特定の者にどさくさを利用して漢奸というレッテルを付けて葬るという中国一流の愚劣さから出ていた」との見方を示し、さらに「南京で颯爽と歩く若者は全部共産党系であり、彼らによってスパイ狩りが行われるため要人たちは姿を隠して滅多に表に出ることがなかった」と報告している。南京では軍事情報の日本側への伝達、日本の航空機に対する信号発信や国民政府が日本の軍艦の運航を妨げるために揚子江封鎖を行うとした決定を漏洩したことを理由とするにとどまらず、親日派をはじめ、日本人と交際していた中国人や少しでも日本のことを知るように話したり、「日本軍は強い」などと言うことを根拠として直ちにスパイと断定され処刑された。外国人も例えば日本の書籍や日本人の写っている写真を持っているだけでスパイの嫌疑を受け拘引されたことから、南京を脱出する外国人も出ていた。
<太字部分出典>
※『東京朝日新聞』1937年10月29日付朝刊
※辻英二「スパイ嫌疑で二千名銃殺 敗戦支那の苦悶する姿」『画報躍進之日本』(東京東洋文化協会、1937年12月1日)
※『東京朝日新聞』1938年1月5日付夕刊

行政院秘書であった黄月秋が最初に銃殺され、当時から日本側と頻繁に交渉していた外交部アジア司長高宗武、汪兆銘の腹心である曾仲鳴と褚民誼、実業家の周作民、許卓然などは監禁されるか生死不明となり、何澄など新聞記者 6 名(大公報 2 名、大美晩報 2 名、チャイナ・プレス 1 名、チャイナ・ウイークリー・レヴュー 1 名)が処刑された。『画報躍進之日本』ではこれらの「漢奸狩り」について、「このような人物たちは皆日本語に通じ、日本をよく知る者であったが日本によく抗議するのもその人物や新聞記者たちであり、日本を知っていると同時に愛国心の強い連中であったにも関わらず血祭りにするほどの逆上ぶりであった」と報告している。

南京攻略戦直前(1937年12月初め)の南京城内では毎日、漢奸狩りで捕えられ銃殺される者は数知れず、電柱や街角に鮮血を帯びた晒し首が目につかない場所はなかった。 南京攻略戦後には、日本軍に好意を持つものは漢奸として処分されることを示したポスターが南京市内いたるところで確認された
※『読売新聞』1937年12月2日付夕刊
※『画報躍進之日本』(東京東洋文化協会、1938年2月1日)


第二次上海事変/漢奸狩り
中国では日中戦争が本格化すると漢奸狩りと称して日本軍と通じる者あるいは日本軍に便宜を与える者と判断された自国民を銃殺あるいは斬首によって公開処刑することが日常化した[37]。上海南市においても毎日数十人が漢奸として処刑され、その総数は4,000名に達し、中には政府の官吏も300名以上含まれていた。戒厳令下であるため裁判は必要とされず、宣告を受けたものは直ちに処刑され、その首は警察官によって裏切り者に対する警告のための晒しものとされた[38]。上海 -支那事変後方記録-にそのナレーションがあった。中国政府の国民対策であったこのテロの効果を求めた新聞の漢奸処刑記事はかえって中国民衆に極度の不安をもたらした[39]。

>[37]『東京朝日新聞』 1937年10月29日付朝刊 2面
>[38]New York Times, August 30 1937 p. 3
>[39]『読売新聞』 1937年8月29日付第二夕刊 1面



>>>満州事変当時の中国兵の実態
>>>シナ人は公開処刑が好き ※残酷な画像が含まれています。
>>>蒋介石・毛沢東こそ大虐殺をしていた?

300px-Hanjian_poster_in_Nanking.jpg
南京攻略戦後の南京市内で撮影された『首都各界抗敵後援会』発行のポスター。日本軍に好意を持つものは『漢奸』と呼ばれ、裏切り者として処分される。右上は、群衆に殴打される姿。右下は飛行機に信号を送ったものはかえって爆死するという意味。左上は裏切り者が捕えられて銃殺されている。左下はさらし首にして公衆への見せしめにしている。『画報躍進之日本』(東京東洋文化協会、1938年2月1日)

chinahead.jpg
この写真は、1938年1月10日付の米国「ライフ」誌に掲載されたもの。その解説には「南京陥落の直前、12月14日に……」とあるが、12月14日は「南京陥落の直前」ではない。解説はまた、このさらし首になった男は「反日的だった中国人」とし、あたかも犯人が日本軍であったかのような印象を読者に与えている。

Lots_of_heads.jpg
これも南京大虐殺の犠牲者と偽られた写真。こうした「さらし首」の風習は、日本では明治以降にはなく、中国では1930年代になってもまだ各地でみられた。1938年2月12日にも、上海のフランス租界で、さらし首事件が起きている。

トップへ ”南京大虐殺”のまとめ 責任者は蒋介石・唐生智 日本は無罪
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アテナイ人諸君、こういう噂を撒きちらした、こういう連中がつまりわたしを訴えている手ごわい連中なのです。
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