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アメリカの国民的なナルシシズム――集団的自己讃美―― 

日本にいじめられている中国はかわいそう、という「幼稚で偽善に満ちた自己満足的ナルシシズム」でルーズベルトのアメリカは蒋介石を支援し、日本に経済制裁を加えハル・ノートを突きつけた。国際法違反の限りを尽くして日本を打ちのめしてやっとアメリカは東アジアにおける日本の立場に気がついたのであった。

ジョージ・F・ケナンは第二次世界大戦前から戦後にかけて、合衆国のソ連通の外交官、そして国務省の政策企画室長をつとめた。

以下、ジョージ・F・ケナン「アメリカ外交50年」(岩波書店・同時代ライブラリー1991).より

p.82より

………しかしながら、日本を抹殺することが可能であるにしても、それすら極東ないしは世界にとって祝福すべきこととはならないであろう。それは単に新たな一連の緊張状態をつくり出すだけであり、日本に代ってロシア帝国の後継者としてのソヴェト連邦が、東アジア制覇の競争者として(そして少くとも日本と同じくらいに無法なかつ危険な競争者として)立ち現れるだけであろう。かかる戦争におけるわれわれの勝利から利益をうるものは、恐らくロシアの外にないであろう。………
(ジョン・V・A・マックマレー氏の1935年の覚書)

今日我々が当面している朝鮮の情勢をみるならば、これらの言葉につけ加えて論評する必要は無い。アジアにおける我々の過去の目標は、今日表面的にはほとんど達成されたということは皮肉な事実である。遂に日本は中国本土からも、満州および朝鮮からもまた駆落された。これらの地域から日本を駆逐した結果は、まさに賢明にして現実的な人びとが、終始われわれに警告したとおりのこととなった。今日われわれは、ほとんど半世紀にわたって朝鮮および満州方面で日本が直面しかつ担ってきた問題と責任とを引き継いだのである。もしそれが他国によって引き受けられたならば、われわれとして軽蔑したょうな重荷を負って、現にわれわれが苦痛を感じているのは、たしかに意地悪い天の配剤である。とりわけ最も残念なのは、ほんのわずかの人びとにしか、過去と現在との間の関係が目に見えないように思われることである。もし、われわれが自らの過誤から教訓を学ばないとしたならば、 一体何からわれわれはそれを学びとることが出来ようか。

半世紀にわたるアメリカの極東外交を顧みるとき、われわれは、疑いもなく、われわれ自身の感情的性向に根ざしている奇妙な現象を見出すのである。われわれは、ヨーロッパ大陸の出来事に対するわれわれの態度を長い間縛っていた禁制が、われわれの東アジアに対する政策の場合に存在しないことを知っている。つまり、われわれは、東アジアの出来事はわれわれにとって重要でないと斥けようとせず、これに進んで関与することをいとわなかったのである。

p.84より

疑いもなく、極東の諸国民に対するわれわれの関係は、中国人に対するある種のセンチメンタリテイーによって影響されていた。―― その気持は、それが今はともすれば陥りがちな盲目的な腹立ちと同じく、米中関係の長期的利益をなんら助けるものでもなく、また中国人にとって有難いものでもなかったのである。 一般的にいってわれわれは、われわれのアジアの友人から親密感と相互的愛情という形であまりに多くのものを期待している。中国人に対するわれわれの態度には何か贔肩客のような感じがある。われわれはいまだかつて、アジアの諸国民との関係においてわれわれの国内的慣習やものの考え方が、いかなる意味をもっているかを、つきつめて考えたことはなかった。いかなる国民も、他の国民の国内的慣習や国内的必要などの是非を判断する資格はない。したがって、われわれは、われわれ自身は別として、誰かに向って、われわれ自身の国の中での行事やしきたりなどについて、弁解がましいことを言う必要はないのである。しかし、自らの同化能力が白人諸民族以外の人々については限られていることを自認する国は、他の人種に属する国民との交渉について、またかれらと親密な関係を結びたいという希望について、特に控え日でなければならないように思われる。

p.237.より

第三回の講演では、 一九〇〇年から一九五〇年まで半世紀に及ぶ、われわれの中国および日本との関係について述べた。この講演の結論として私は、それら両国との関係が、中国に対するわれわれの奇妙ではあるが深く根ざした感傷を反映してきたことを指摘した。この感傷が、自分たちほど恵まれず、より後進的と思われる他の国民に対する慈悲深い後援者、慈善家または教師をもって自任することによって得られる喜びから生じているのは明らかであった。またこの自己満足の中に、私はアメリカ人が陥りやすいものであるように思われた国民的なナルシシズム――集団的自己讃美――を見ないわけにはいかなかった。この自己讃美の傾向は、われわれの大げさな対外的行動と著しい対照をなす、深い潜在意識的な不安感――自分たち自身についての確認の必要――を隠すことができただけであると思われた。

同じ講演において、次に私は、アメリカ人の日本に対する否定的で批判的な態度を取りあげた。それはもちろんわれわれが中国に対してとった後援者的・保護者的な態度の裏返しであった。われわれの日本に対する不満は、日本が当時東北アジアで占めていた地位――朝鮮と満州での支配的な地位――に主として関わっていたように思われる。それらの地域は正式には日本の領上ではなかったから、日本による支配は法的にも道徳的にも不当であるとわれわれは考えたのである。私はこのような態度に異議を唱え、それはわれわれ自身の法律家的・道徳家的な思考基準を、それらの基準とは実際にはほとんど全く関係のない状況に当てはめようとするものであったと批判した。そして私は、この地域における活動的な力であるロシア、中国および日本という三つの国は、道徳的資質という点ではそう違わなかったのだから、われわれは他国の道義性を審判する代りに、それら三者の間に安定した力の均衡が成り立つよう試みるべきであったと論じたのである。日本をアジア大陸で占めていた地位から排除しようとしながら、もしわれわれがそれに成功した場合そこに生する空自を埋めるものは、われわれが排除した日本よりもさらに好みに合わない権力形態であるかもしれないという大きな可能性について、われわれはなんら考慮しなかったのだと私には思われた。そしてこれは実際に起こったことなのである。

このことに関連して、私がいま言及している講演が、朝鮮戦争中に行なわれたものであることを指摘したい。私は当時、朝鮮半島においてわれわれが陥っていた不幸な状態の中に、われわれが以前、日本の国益について理解を欠いていたことへの、また日本に変わる望ましい勢力があるかを考えもせずに、日本をその地位から排除することにのみ固執したことへの、皮肉な罰ともいうべきものを認めないわけにはいかなかった。この例によって、私は、外交政策におけるわれわれの選択が必ずしも善と悪の間で行なわれるわけではなく、むしろより大きい悪とより小さい悪との間で行なわれる場合が多いことを指摘しようとしたのである。

以上
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アテナイ人諸君、こういう噂を撒きちらした、こういう連中がつまりわたしを訴えている手ごわい連中なのです。
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